散歩道


井の頭弁財天堂

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井の頭弁財天堂

 井の頭公園の池畔にある弁財天は、関東源氏の祖・源経基の創建で、伝教太師が延歴8年(789)の作という天女神を本尊に祀ったことに始まると伝えられる。頼朝挙兵に際しては、その使者・安達盛長の夢枕に立って大願成就を予言したことから、「勝ち運の銭洗い弁天」として知られる。

 ご利益は、このほか、弁天様ならではの金運や縁結び、安産、また井の頭白蛇伝説から子宝、さらには天変地異を除くことから交通安全など広範にわたる。
 池中の中の島に鎮座する社殿は、先に焼失した弁財天を徳川三代将軍家光の命により寛永13年(1636)に再建したという。現在の社殿は、大正12年(1923)の関東大震災で損壊、翌年に焼失後、昭和3年(1928)に再建されたものである。
 神田上水源の水神、音楽や芸能の守護神としての弁財天は江戸町人にも盛んに信仰された。社の前の太鼓石橋は文化14年(1817)に江戸の一番組・湯屋講中が寄進したもので、脇の石灯篭はじめ奉納された石造物に、染物、風呂屋等水に関わる江戸の商人の名が多い。
 また、江戸の一日の行楽にに好適の景勝地であったようで、安藤広重の「名所雪月花」のうち「井の頭の池弁財天の社雪の景」や「名所江戸百景」のうち「井の頭乃池弁天の社」からその盛況が窺がえる。

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井の頭白蛇伝説

 江戸の昔(ある本には、鎌倉時代初期の話となっている)、北澤の松原(現・世田谷)に、子宝に恵まれない長者(「さんねんさん」という)夫婦がいた。そこで井の頭の弁財天に願をかけたところ、時満ちて女の子が生まれた。首筋に生えた三枚の鱗を怪しみつつも、これを育てるうちに、娘は美しく成長し、「弁天様の生まれ変り」と評判になるほどの器量よしとなった。
 やがて娘が十六を迎え、親子三人打ち揃って、弁天様へお礼参りに出かけたところ、娘は池の前にじっとたたずんだまま動かない。わけを問う両親に向かって、娘は自分が池の主の化身であることを打ち明けた。
「今まで育てて頂いたご恩は、決して忘れません」
 娘が池に身を躍らせると、その姿は大きな白蛇に変り、水底へと消えていった。残された夫婦は娘をしのび、宇賀神を石に刻んで供養したという。
この伝説には、後日譚がある。
 ある年、長雨が続き、いたるところで洪水が起こり、井の頭池も水があふれ、付近一帯が水びたしになった。近くの村に住む与作という貧しい百姓が、風雨の中を草取りに出かけ、池のほとりで一休みしていると、足に小さな白い蛇がまとわりつき、手に持っていた鎌で追い払うと、その切っ先が蛇にあたり血がほとばっした。すると、辺りは暗くなり、篠つくような雨と雷鳴、そして池の中から大蛇が現れ、与作に襲いかかってきた。
 与作は、夢中で家に逃げ帰ったが、その夜の内に高熱を発して死んでしまった。
 一夜明けると、昨日までの風雨がうそのような上天気となり、それから雨のない日が続き、今度はひどい旱魃となり、井の頭池の水も干上がってしまった。
困った農民たちは、かねて名僧の誉の高い近くの宝仙寺の秀雄上人に雨乞いの加持祈祷してもらった。七日七夜の祈りが終わった時、西の空から黒雲が湧き起こり、土砂降りの雨が降った。
 この時、カヤとススキの甲州街道を白馬に跨った美女が東に向かって走っていった。通りがけの村人が訳を聞くと、女は「私は武蔵野のある家に嫁いでいたが、夫が病で早世したので、暫く実家に戻っていた。今日、ありがたいお坊さんのお招きを受けたので、これから婚家へ帰るところです」と答えたという。その女は、婚家のことも、実家についても多くは語らなかったという。
 宝仙寺は真言宗武山派。もと阿佐ヶ谷村にあったが、後年、現在の中野区中央に移った名刹である。阿佐ヶ谷大宮八幡宮の別当寺である。
 秀雄上人は、仙台藩伊達正宗公の実弟と言われる。武蔵野の萩を仙台に移し、仙台萩と名づけた人と伝えられている。後に、武蔵五日市増子の大悲願寺住職となり、同地で入寂している。(原田重久著「武蔵野の民話と伝説」による)

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石像物の配置案内図

石像物マップ
 1狛犬一対(明和8年・1771)
 2水盤(正徳3年・1713)
 3庚申塔
 4弁財天坐像(宇賀神)(元禄12年・1699)
 5石橋(文化14年・1817、一番組・湯屋講中)
 6石灯篭一対(天保4年・1833)
 7辛夷の碑(明治26年・1893)
 8水盤(安永4年・1775)
 9石階段(文政7年・1824、両国講中)
10石灯篭一対(紫灯篭)(慶応元年・1865)
11宇賀神(石鳥居標石)(明和4年・1767)
12石灯篭一対(文化7年・1810、両国講中)


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