散歩道


太宰記念碑
太宰写真
玉鹿石

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太宰治入水地

 三鷹駅から玉川上水の右側、「風の道」井の頭公園方面に歩くと、紫橋の手前にポケットスペースがある。ここに太宰治の記念碑があり「乞食学生」の一節と玉川縁に佇む太宰治の写真が刻まれている。太宰治が入水自殺した場所は謎だが、ポケットスペースから少し紫橋へ行った、この辺りだと言われる場所の路傍に、太宰治の生まれ故郷、青森県金木町の太宰を偲ぶ「玉鹿石」が置かれている。何も書かれていないので知らなければ路傍に置かれた石として見過ごされる。

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太宰治記念碑文
 「四月なかば、ひるごろの事である。頭を挙げて見ると、玉川上水は深くゆるゆると流れて、両岸の桜は、もう葉桜になっていて真青に茂り合い青い枝葉が両側から覆いかぶさり、青葉のトンネルのようである。・・・・」太宰 治「乞食学生」より
 昭和23年(1948)6月太宰 治は近くの玉川上水で自らその39年の生涯を終えた

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太宰治と仕事場

 太宰治は、明治42年(1909)青森県北津軽郡金木村(現金木町)に、県内屈指の大地主の子として生まれた。東京帝国大学仏文科在学中に井伏鱒ニに出会い、師事する。昭和14年(1939)1月、井伏夫妻の媒酌で結婚。同年9月に甲府から三鷹の下蓮雀に転居した。以降、終戦前後の疎開を除き、昭和23年6月玉川上水に入水するまでを三鷹で過ごした。

 昭和21年11月に疎開先の青森県金木から三鷹に戻り、三鷹での最初の仕事部屋として旧中鉢家の2階を借りた。商社に勤める女性が借りた部屋を女性が出勤している間、午後3時頃までという約束で借りたものだった。ここで「メリークリスマス」「ヴィヨンの妻」を執筆した。昭和22年4月から2番目の仕事場・旧田辺精肉店離れ(現第一勧業銀行)へ移り、「斜陽」の3章以降を執筆した。編集者にも内密にした仕事場で夜遅くまで明かりがついていたという。昭和22年5月には3番目の仕事場である旧西山家へ移り「斜陽」を完成させる。
 昭和22年7月から4番目の仕事場・旧千草(現ベル荘)へ。よく通った飲み屋の2階を仕事部屋として借りたもので、そん部屋の窓は、狭い路を隔てて、彼の死の道連れとなった山崎富栄の部屋に面していた。この山崎富栄の下宿であった旧野川家(現永塚葬儀社)の2階の一室も仕事場として使われた。そして昭和23年6月13日の深更、この部屋から二人は玉川上水にむかうのである。

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太宰治の墓
 19日に遺体が発見され、昭和24年(1949)6月の一周忌に太宰の墓が禅林寺の森鴎外の墓の斜め前に建てられた。昭和19年に発表された「花吹雪」に「この寺の裏には、森鴎外の墓がある。(中略)ここの墓地は清潔で、鴎外の文章の片影がある。私の汚い骨も、こんな小奇麗な墓地の片隅に埋められたら、死後の救いがあるかもしれない」という一文があり、その意が汲まれたものである。
 墓碑には、太宰自筆の文字が拡大して刻まれている。なお、平成10年に、美知子夫人が葬られた津島家の墓が隣に建立された。
死の直前に発表された「桜桃」に因み、毎年6月19日に太宰を偲ぶ桜桃忌が催される。
「てくてく三鷹」市内歴史散歩(三鷹市教育委員会編)および広報みたか(2002・1.1)みたか観光マップから抜粋