寺社関連の豆知識


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お稲荷さま

 稲荷社は全国四万社、小さな祠堂まで含めると百万あるといわれる。狐と朱の鳥居、商売繁盛・農業の神様として親しまれてきた「おいなりさん」の総元締めは、京都東南の稲荷山麓、水利豊かな交通の要衝に鎮座する伏見稲荷大社である。
稲荷五社大明神
 伏見稲荷大社の祭神は、(宇迦之御魂大神(下社)、佐田彦大神(中社)、大宮能売大神(上社)、田中大神(下社摂社)、四之大神(中社摂社)の稲荷五社大明神である。これらの神々は渡来氏族である秦氏の氏神、あるいは空海に東寺の守護を約束した土地の神などと伝えられる。
 宇迦之御魂大神の「宇迦」は「うけ」(食物)の古形で、食物を主宰する神の保食津神御饌津神とも混同されているが、須佐之男命が大山津見の娘、大市比売を妻にして生んだ神の名であり、漢字で倉稲魂と表わされることもある。稲に宿った神であり、「稲を荷う」「稲の成る」神、つまり五穀豊穣の神とされている。
 佐田彦大神は、海陸の道路を守る神であり、通商貿易の事にも万事を善き方に導く神とされる。皇城巽(京都の東南)方向にある鎮護神(都を護る神)また熊野御幸の道中守護の神として、朝廷からも尊崇されていた。
 大宮能売大神は神座舞踏の始祖であり、歌舞音曲の神として、さらに寿命の延長を守り、愛敬の神として一家の和合商売繁盛を守護する神とされる。稲荷社は、愛法の神、女性の出世栄達の神としても崇敬された。「愛法」とは、元来は真理に対する愛、つまり執着のことだが、転じて愛を獲得する呪法の神とされた。
 田中大神、四之大神は後年に加えられた神で由来は不詳であり土産神でないかと推測されている。

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「いなり」の由来
 「山城国風土記」の「紀伊郡の伊奈利社」の由来によれば、和銅四年(711)秦伊呂具(または伊呂巨)は、ある日お餅をこねて矢を射る的を作り、矢を射かけたところ、お餅は白い鳥に姿を変え、かなたの山の峰に飛び去った。白い鳥の舞い降りた峰には稲がたわわに実り、伊呂具はこの出来事を神様のなされたことと思い、そこに社を建てた。これがおいなりさんのはじめとされる。(この物語は祭神は相違するが全国に分布する白鳥伝説とも類似している。)
 京の地では、西北の愛宕山付近でよく雷が発生し、東南にあたる稲荷山へ抜けることが多い。稲荷山は雷の「稲妻」を多く受けていることから、「稲も成る」と考えられてきたようだ。
東寺との関係
 淳和天皇の御代・天長4年(827)、天皇の健康がすぐれないために占いをしたところ、東寺の塔をつくる材木として稲荷社の樹を伐った祟りであるということで、内舎人の大中臣雄良を遣わして従五位下の神階が授けられたとある。空海(弘法大師)が東寺の造営を委ねられたのは弘仁14年(823)で、伽藍構築途中での事で、その後、東寺の守護神として祭られた。
 その後、神階が進み最高位の正一位になった。なお、正一位は稲荷が有名だが多くの神々が授けられている。
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しるしの杉

 平安時代も中期以降になると、紀州の熊野詣が盛んとなり、その往き帰りには、必ず稲荷社に参詣するのが習わしとなっていて、その際には、稲荷社の杉の小枝=“しるしの杉”をいただいて、身体のどこかにつけることが一般化していった。
 『為房卿記』には、永保元年(1081)10月、藤原為房が熊野詣の帰途、稲荷社に参詣し、杉枝を伐って笠に差し、京に入ったと記録されている。
 また、『平治物語』には、平治元年(1159)12月10日、平清盛が熊野参詣の途中、京から「前日に三条殿へ夜討があり御所が焼亡した」という知らせに急ぎ京へと引き返す時、「先づ稲荷の社にまいり、各々杉の枝を折って、鎧の袖にさして六波羅へぞつきにける」と記されてる。
初午
 平安時代から、京洛の人々が行楽気分で初午(2月に入って初めての牛の日をいい、通常は2月下旬から3月中旬の間であり、春めいた頃)に稲荷大社を詣でる風習があった。
      きさらぎや けふ初午の しるしとて 稲荷の杉は もとつ葉もなし
                               新撰六帖   光俊朝臣
「初午に参詣した人々が、そのしるしとして、各々が杉の小枝をとっていくものだから、この日の稲荷山の杉はすっかり葉がなくなってしまった」とあるように、“初午”と“しるしの杉”が切りはなせない関係にあった。しかし「しるしの杉」は必ずしも「初午」とだけ結びついたものではない。その後、初午の風習は全国に広まり、稲荷社の祭礼として有名になった。
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狐と眷属

 お稲荷さんの狐は、眷属といって神様の一族のような資格を与えられており、そのため狐は稲荷神そのものだという誤解をあたえている。
 お稲荷さんと狐の関係は、いくつかの説がある。稲荷の神が「食物の神」つまり御饌神(みけつかみ)なので、その「みけつ」がいつか三狐(みけつね)さらに御狐(おけつね)に転じたことにより「狐神」の信仰が生じたという。
 あるいは、稲荷神がのちに密教の保食津神荼枳尼天(仏教では夜叉の類で女性の悪鬼)と本迹関係を結んだことを重視し、荼枳尼天のまたがる狐がそのまま稲荷神の眷属とされたのだという説も一般に流布している。
 また、空海の弟子・真雅僧正の著といわれている「稲荷流記」には、平安初期の弘仁年間(810〜24)のこととして、平安京の北郊・船岡山の麓に棲む年老いた白狐の夫婦の話が記述されている。
 この狐夫婦は、心根が善良で、常々世のため人のために尽くしたいと願っていたが、畜生の身であっては、所詮その願いを果たすことはできない。
 そこで、狐夫婦はある日、五匹の子狐をともなって、稲荷山に参拝し、「今日より当社の御眷属となりて神威をかり、この願いを果たさん」と、社前にお祈りした。すると、たちまち神壇が鳴動し、稲荷神のおごそかな託宣がくだった。
  「そなたたちの願いを聞き許す。されば、今より長く当社の仕者となりて、参詣の人、信仰の輩を扶け憐むべし」
 こうして、狐夫婦は稲荷山に移り棲み稲荷神の慈悲と付託にこたえるべく日夜精進に努めるた。男狐はオススキ・女狐はアコマチという名を明神から授けられたという。
 稲荷社の眷族神として命婦(白狐)社が祀られるようになり、稲荷山で狐に仕える祈祷師や巫女が活躍した。この白狐は、美女に化けると信じられていた。
 こんなことから「おいなりさん」と白狐は切っても切れない関係となった。
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稲荷信仰の隆盛

 稲荷はまた、鍛冶神でもある。稲荷の化身である白狐が、三条小鍛冶宗近(平安末期に刀匠)を助けて勅命の剣を製作したとされ、毎年十一月の火焚祭(吹革祭)が始まったといわれている。
 伏見の稲荷の神は、その土地柄ゆえだろうか、その後、農業神としてよりも「商売繁盛の神」へと次第に発展していった。
 京都で隆盛とともに、商業の発達する江戸時代には爆発的な人気が出て、鍛冶業者をはじめ、各種の同業者組合が「稲荷講」を結び、屋敷神としても盛んに勧請されていった。この結果、江戸市中では「伊勢屋稲荷に犬の糞」といわれるまでに増えた。
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稲荷と朱

 神社には一部に丹塗りを施した建物は珍しくないが、稲荷社は本殿まで朱塗りで、とりわけ朱のイメージが強く、朱は稲荷神の徳を表わすともいわれている。
 なぜ朱がシンボルカラーになったのかはっきりしないが、稲荷山に火の行者がいたという説や、鍛冶あるいは落雷によってよく山火事が発生することからの火焔のイメージからかもしれない。ともあれ、中世には火焔の玉と白狐は稲荷のシンボルとなった。
稲荷と千本鳥居
 稲荷山にある千本鳥居の起源は意外に新しい。稲荷の人気が高まった江戸中期、日本一の大鳥居を造立しようと「肝煎講」が結成され、朱の鳥居が建立された。十九世紀になると、「奥宮(命婦谷)」が整備され、山の神蹟(お塚、すなわち稲荷山中の祠のこと)で民間習俗の「狐下げ」(狐つきの病気を祓うこと)が盛んとなり信者個々人による朱の鳥居建納が陸続として始まった。
 しかし明治になり、お塚は前近代的な怪しい宗教活動だとしてたびたび禁止されたが、熱心なお塚の信者たちは「稲荷講社」を設立、普及活動は一層盛んとなり、朱の鳥居はどんどん増え続け、稲荷山全域に朱いトンネルとなって広がっていった。(実業之日本社「神社と神々」井上順孝監修、智恵の森文庫「欲望を叶える神仏・ご利益案内」小松和彦他監修、伏見稲荷大社ホームページ等から転載)


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稲荷社案内

 散歩道で紹介している中で稲荷を祀っているのは次の神社である。但し、境内社として祀っているのは除く。

タイトル寺社名等写真備考
三鷹−吉祥寺 西窪稲荷神社あり武蔵野市緑町
稲荷社あり武蔵野市中町
寺社巡り 笠森稲荷あり小金井市東町
佐須稲荷社あり調布市深大寺南町
大沢八幡社あり三鷹市大沢(八幡と別殿で天神と合祀)










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