寺社関連の豆知識


七福神図

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七福神


 幸福をもたらすとされる七福神は、エビス大黒天毘沙門天布袋福禄寿寿老人がそのメンバーとして知られている。
 七福神という考え方が出来上がるのは室町時代であるといわれる。当時、寺院の格付に五山や十刹といい、名所を集めて近江八景や奈良八景などと、同じ種類のものを目出度い数だけ集めるということが流行した。

 神仏にお参りするのにも、五社明神、七観音などという取り合わせがなされ、その中でも七は、七曜・七宝・七賢などと同様に聖なる数とされた。七福という語は、「仁王護国般若波羅密経」というお経にある「七難七福」という語に由来するといわれる。そこで画題として好まれた「竹林の七賢人」になぞらえて、七体の福神を取りそろえたのが七福神の始まりとされる。

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七福神のメンバー

 七福神のメンバーは、最初の頃には、弁財天のかわりに吉祥天が入っていたこともある。また、中国の想像上の動物で、猿に似て人の言葉を理解し酒を好む猩々がメンバーに入れられていた時期もある。さらに、福禄寿と寿老人はもともと同じ神であったとされるので、どちらか一方の名前でまとめられた時期もあった。
七福神が出来上がる前から、比叡山の三面大黒天、西宮の夷三郎、鞍馬の毘沙門天、竹生島の弁財天などは個別に福神として崇拝されていたし、いくつかの取り合わせがあった。
例えば、延徳年間(1489−92)に僧秋月は、鏡馗(しょうき)(中国で信仰された厄除けの神)、大黒天、福禄寿、布袋が小舟に乗り、唐子(中国風の子供)二人が竿をさしている四福神の絵を描いているし、布袋と大黒天の博打、大黒天とエビスのひげの引き抜きあい、エビスと布袋の首引き、などというユーモラスな画題もあった。

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七福神と宝舟

 いちど七福神のメンバーが固まると、広く絵画・彫刻・芸能などの題材に好んで使われ、江戸時代には正月の縁起物として帆かけ船に米俵や宝物をのせ、七福神がのりこんだ宝船の絵が流行した。
 江戸時代、正月二日の夕方に、「お宝、お宝」といって、七福神や回文を書いた宝船の絵が売られた。この絵を枕の下に入れて寝るとよい夢が見られるという。宝船の帆には、「獏(ばく)」という字を書いたものもあり、これは悪夢を食べるという中国の想像上の動物「獏」が悪夢を食べてくれるようにとの願いがこもっている。
 また、宝船に書かれた回文(上から読んでも下から読んでも同じ音になる文章)は、「なかきよの、とをのねふりの、みなめさめ、なみのりふねの、おとのよきかな」(長き夜(永き世)の 遠の眠りの  みな目覚め 波乗り船の 音のよき哉)であった。この回文がどのようないきさつで添えられるようになったのかは、余りはっきりしていない。

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宝舟の起源

 七福神を船に乗せたデザインが生まれたのは、もともと中国の「送窮」(貧乏神送り)の習わしが日本に伝わり、それが宝船に変化したという説がある。
 中国では、年の終わりに船を作って窮鬼(貧乏神)を乗せて流すという厄払いの風習があった。これが日本に入り、節分に船の絵を描いて、貧乏神を乗せたと想定して流すようになったという。地域によっては、貧乏神をイメージした、痩せこけた老人の人形をつくり、船に乗せて流したこともあったらしい。
 災いを送ったあとには、福がきて欲しいという願いから、今度は海の向こうから福がやってくるという信仰が生まれたのではないだろうか。また、厄払いから福迎えと意味が変わっていくうちに、時期も節分から正月へと変化していった。
 昔から、海の彼方にはユートピアがあり、そこから神が定期的に訪れて、福をもたらすという信仰がある。「海の彼方のユートピア」「福や富をもたらす来訪神」というモチーフは日本の宗教の中で、手をかえ品をかえ繰り返しされてきたものである。

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七福神詣で

 江戸時代には、宝船の絵とともに七福神詣でが流行した。とくに正月元旦から七日までに七福神をまつった社寺を巡拝し、一年の福を授かろうというのである。福神の御利益を七ついっぺんに授かるのだから、これほどいいことはない。やがて各地にお参りするコースができ、場所の名前をいれて「○○七福神」と呼ばれるようになった。現在でも観光コースとして、新しい七福神めぐりが次々と生まれている。(小学館「東京近郊・ご利益散歩ガイド」東京散歩倶楽部編著から転載)


 調布七福神としては、大正寺(えびす)西光寺(大黒天)明照院(弁財天)深大寺(毘沙門天)常性寺(布袋)祇園寺(福禄寿)昌翁寺(寿老人)がある。三鷹不動の井口院には七福神堂があり七福神と吉祥天の八神が祀られている。