野川を歩く


旧鎌倉街道

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旧鎌倉街道

 国分尼寺跡の西側に黒鐘公園が、北側には緑濃い切り通しがある。この切り通しは、上野・信濃と鎌倉を結ぶ「上の道」といわれた旧鎌倉街道跡である。切り通しの中ほど、両側に迫る丘に、西に伝祥応寺跡、東に塚跡の遺跡が残る。切り通しを抜けて武蔵野線に沿って進めば、史跡通りを経てJR西国分寺駅に出る。

伝祥応寺跡発掘調査図

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伝祥応寺跡(中世寺院跡)
 本跡は尼寺伽藍の一部とする説もあったが、近年の調査によって、鎌倉時代末頃に建てられた寺院と判明し、本多4丁目の祥応寺の前身にあたると考えられている。
 旧鎌倉街道と言われる切り通しに東面して、土塁(基底部幅3m、高さ1.2m以上)と溝とで東西30m、南北45mの長方形の区画が形づくられている。
 現存するおよそ15個の礎石の分布などから、

東西9m、南北18mほどの規模の堂がその中央にあり、瓦を用いない建物であったと推定される。出土品には鉄製風鐸板碑、銭貨などがある。(国分寺市教育委員会説明板より)写真の発掘調査図は案内板から転載。

塚跡発掘調査図

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 この塚(盛土遺構)は底面一辺約22m、高さ約3mで、一辺約7mの平坦な頂部を有する方錐体と復元され、周囲の地山層(黒褐色土)を削った土で築かれている。
 旧来「土塔」といわれ、国分寺に関係するものとされたが、二度に及ぶ調査の結果、中世(14・15世紀頃)において種々の祈願成就を得るために、作法に則り本尊に対し祈祷するために築かれた修法壇

であり、伝祥応寺に関係するものと推考されている。
 JR武蔵野線の拡張工事に伴う第一次調査(1969)では、下層より平安時代竪穴住居跡2軒、盛土内より明銭(洪武通宝、1368年初鋳)1枚、頂部に主体部と思われる粘土敷き硬化面、その付近より梅瓶型瀬戸灰釉瓶子1点や素焼きの土師質土器片数点などが出土している。(国分寺市教育委員会説明板より)写真の発掘調査図は案内板から転載。

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 下の写真、右は伝祥応寺跡へ登る階段、跡地は周りを木々に囲まれた平坦な空き地があるだけである。中は塚跡、切り通しから階段を登ると空き地があり、北隅に小高い塚がある。左は塚の上から国分寺を眺望する。左手の繁った林が薬師堂のある処、その右手に国分寺寺域が広がる。

伝祥応寺跡塚跡塚跡頂部からの遠望


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