野川を歩く


小金井小次郎の墓
寛文六年庚申塔

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小金井小次郎の墓

 小金井神社の前の薬師道を西へ行くと、西念寺の南に鴨下家の墓地があり、ここには多摩地区でもかなり古い寛文六年の庚申塔と小金井小次郎の墓および追悼碑がある。
 写真上、高い石柱が小次郎の追悼碑
 写真下は寛文六年庚申塔

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寛文六年庚申塔
市郷土資料指定 高さ108cm
 この庚申塔は江戸時代前期の寛文六年(1666)に建てられ、主尊の地蔵像の下に三猿、右に「武州多麻(摩)郡付(府)中領小金井村 奉納 庚申供養二世安楽所」、左に「寛文六年丙牛十月吉日」とあり、鴨下勘右衛門・田中平右衛門・大久保藤左衛門ほか40名ほどの姓名が刻まれている。
 多摩地区でもかなり古いものだが、本尊に地蔵が

刻まれているのは珍しい。
 庚申塔の主尊が地蔵であるのは、比較的古い時期に見られるが、多摩地域でも数少なく珍しい。滄浪泉園内に同じ寛文六年正月に建てられた地蔵像の庚申塔がある。
 庚申信仰は六十日ごとに巡ってくる庚申(かのえのさる)の日の夜に講中と呼ばれる信仰を同じくする仲間同志が飲食を供にしながら、眠らずに一夜を過ごす風習で、庚申塔は、講中によって供養のため建てられた。(小金井市教育委員会案内板より)
 主尊が地蔵像なのは、庚申信仰からは説明し難いと思われる。江戸において、従来の地蔵信仰に当時流行した庚申信仰を表わすものとして三猿を付加した初期の形態でないかと小生は思う。

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小金井小次郎
 小金井小次郎は幕末の文政・天保のころの侠客で、新門辰五郎の兄弟分ともいわれ、関東一円に三千人の子分を抱えた武州小金井の大親分として鳴らした。名前は関小次郎といい、小金井村の名主関勘右衛門のせがれで相撲取りのような大男であったという。子供の頃からうでっぷし強く、けんか早い。何時の間にか賭博に染まる。
 天保十一年春、玉川上水の桜が半開の頃、小金井堤の西部にある二つ塚で、小川新田(現小平市)の幸蔵親分と大げんかし、彼の持つ賭博場の縄張りをとった。その後、親分として勢力を拡大していった。
 生涯の内、関八州取締出役に二回捕まり、一回目は佃島の牢送り、二回目は三宅島に流罪となる。島民に牛乳を飲むことを教え、後に多摩に乳牛をいれたのも彼だったという。慶応三年(1867)12月に釈放されて小金井村に戻ってきた。明治維新の混乱に迷う若者たちを連れて三宅島にとって返し、以降島の開発に尽力したという。亡くなったのは明治14年、享年64歳だった。

かんぶん
こうしんとう
しゅそん
さんえん
ひのえうま
そうろうせんえん
こうちゅう