野川を歩く


堅牢地主神社
近藤勇産湯の井戸跡

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近藤勇生家および道場跡

 三鷹市、調布市の境、野川公園の入り口の三叉路の人見街道沿いにある。三叉路には、堅牢地主神社の鳥居と祠があり(上の写真)、その奥の人見街道沿いに小さな木の鳥居と祠がある。(上の写真で左奥に見える)この祠の先に小さな空き地が近藤勇生家跡で井戸跡の標が立っている。(中の写真)
 当時この地にあった、近藤勇の生家・宮川家の屋敷は面積約7000平方メートルの広さがあり、建物は母屋のほか蔵屋敷、文庫蔵、乾燥納屋、地下蔵、農具入納屋等があり、周囲はケヤキ、カシ等の大木や竹林が茂っていた。現在の跡地は屋敷の東南部に位置し、昭和18年に家が取り壊されるまで使用していた井戸のみである。
 生家跡の前の道(人見街道)の向かい側に近藤家と道場「撥雲館」(下の写真)(未公開)がある。

(参照)近藤勇の墓:寺社巡りの竜源寺で案内
近藤勇の像:寺社巡りの西光寺で案内
撥雲館
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近藤道場撥雲館

 豪農で篤農家でもあった近藤勇の父 宮川久次郎は、広い自分の屋敷内に寺小屋を開くとともに、幕末時盛んであった武術の一派「天然理心流」の道場を開き、勇兄弟をはじめ近在の子弟を集めて学問や武術を指導していた。
 天然理心流は近藤長祐を初代とする流派で、江戸に道場を持つかたわら多摩地方に広く出稽古

していた。小技より気迫を重んじ、いかなる相手にも動じない極意必勝の実践を大事にする武道であった。三代目近藤周助は、月に2〜3回招かれた久次郎の道場に通っていたが、勇むの度胸と技量を見込み、近藤家の養子として迎い入れた。勇16才の時であり、28歳で四代目を襲名した。
 勇が近藤家に入ってからは、高弟や後の理心流達人と云われた長兄の子 宮川勇五郎(勇の養子となり五代目を襲名)等が主となって多摩一円の門人を指導、その数三千人とも云われている。
 勇五郎は、父から分け与えられた屋敷内の納屋を道場としていた。この道場が「撥雲館」である。その名の由来は、ある時ここを訪れた山岡鉄舟が命名し看板に揮毫したと伝えられている。「撥」は「とりのぞく」という意味を持つが「撥雲」という館名は暗雲を取り除くと言う意味で、当時の世相からうなずけるものである。「撥雲館」はその後手狭になったため、門下生の協力で昭和7年北側空き地に改築し、盛大な道場開きが行われた。しかし、勇五郎はその翌年83歳で亡くなった。その後も道場は門人たちの手で医事され、稽古は続けられた。
 太平洋戦争が始まり、調布飛行場の建設に伴う勇五郎宅取壊しの際にも、門人達の熱意によって、道場は勇五郎の娘の嫁ぎ先である東隣の峰岸家の土地に移築された。戦後になって人見街道の拡幅のため再移転する時、再び近藤家敷地内の現在地に移築された。(調布市教育委員会の案内板による)

はつうんかん
ながみち