野川を歩く


下弁財天

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辨財天

祭神:市枡島姫命
 野川の両岸の遊歩道は前原小学校の校庭で一時途絶える。学校を迂回して門前の道を南に行くと高台の麓に小さな池と園地がありそこに小さな社がある。池のそばに貫井神社名で「辨財天由来」の案内板が立っている。大澤氏に関しては上宮大澤神社の由緒にも見られる。

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辨財天由来
 大澤隼人守一族は何時頃此の武蔵野に辿り着いたのか定かではないが、此の武蔵野国貫井の里を永住の場所と定め、神の御加護の下、春夏秋冬長居年月をかけ此の地にとどまり、広い野原を切り開き開墾した。
 当社の創立は慶長十年(1605)九月十五日、武蔵野開拓の大澤一族の里人が此の清水の湧き出る地に、生活になくてはならない大切な水の神であらせられる水神を御招きし、氏神様として辨天様をお祀り申し上げた。中世になり、何時からかは定かでないが、貫井神社を上辨財天、この社も下辨財天と呼ばれ。今日も愛称で呼ばれている。
 慶応三年(1867)維新政府に王政復古が成される。
 上辨財天は、明治二年(1869)神仏分離令により、厳島神社と改称する。
 明治十四年(1882)三月十五日社殿大破により再建される。
 明治三十三年(1900)大澤一族の下辨財天と小長久保の八雲神社が貫井神社に合祀となる。
 昭和二十九年(1958)より同三十六年頃の間、池の湧水が止まり、それ以来下辨財天の池も枯れ、又、水脈の変化か大木の杉も枯れ、その近辺の木も枯れ、真竹に花が咲いたと思えばこれも又根まで枯れて、今日になっても竹の芽も生えぬ様な異変の年となる。
 平成十年(1998)。社殿再建より百有余年のあいだ風雨に耐えてきた社も老朽化の為、総代会及び世話人会に計り再建することに決定し同年九月四日落成する。
 鳥居奉納、貫井南町東組有志二十名一同、並びに境内緒整備も合わせて、奉仕奉納を行う。
 平成十戌寅年九月九月四日 貫井神社(原文そのまま転載)

べんざいてん
いきちしまひめのみこと